短く、長い日々に

聖書 箴言 3章1〜8節 | ルカによる福音書 8章4〜15節

 箴言には格言、処世術と呼べるような金言が記されています。もう一つ大事な意味は、神を畏れる人が、後に続く世代にそれらの言葉を伝えたということです。かつては自分も一人の息子であった人が、苦労して成長し、子どもや孫を得て、歳を重ね深みを増して、賢者として、あるいは一人の父親として語る言葉。その言葉が伝えられます。

 息子や娘、若い世代の者たちは、「なるほど」と思ったり、「言われることはいつも同じ」と思ったり、処世術など私には必要ないというようにして、自分の赴くままに出かけて行ってしまうでしょう。その者たちは賜物、そして、自由に選択する意思が与えられており、自らの道を進むことができるのです。それでも、言葉を語った者たちは、続く世代が道に迷った時には、伝えられた言葉を思い起こしてほしいと願ったはずです。

 イエス・キリストの教えは、群衆たちに聞かれました。主イエスの教えも、ある人にはそれが良く響いたことでしょう。ある人にとっては、その時は喜んで聴いたけれども、後に正確に思い出せなくなったことでしょう。しかし弟子たちの多くは、イエス・キリストの教えに心を留めました。キリストの教えをいつも思い起こしながら、その人たちの道を進んでいったのです。

 今日、ルカ福音書に記される、種を蒔く人のたとえを聞きました。たとえ話の冒頭に出てくる種蒔きに出かけて行った種蒔く人とは、宣教活動に出かけた神の子イエス・キリストを思わせますし、弟子たちの姿でもあったでしょう。神の言葉を心に留めて運んでいった群衆のことかもしれません。いずれにしても、神の栄光を知っている人たちが連想されるのです。実際に多くの労苦を得たのは、イエス・キリスト、神の御子であったと私たちは読むことができます。それがこの譬え話における前提、一番の鍵です。

 主イエスは四種類の種のたとえを語られます。ある種は道端に、ある種は石地に、ある種は茨の中に落ちた。他の種は、良い土地に落ち、生え出て百倍の実を結んだ。言わば、A、B、C、Dの対比です。対比は、諺、箴言などにも見られる手法です。対比によって、一つのことを強調してみせるのです。明らかに、最後の良い土地に落ちた種が印象づけられています。

 聞いていた群衆は、身近な植物のたとえですから、喜んで聞いたことでしょう。百倍の実を結んだという言葉を聞いた時には、種の素晴らしさを思い出し、心を躍らせたと思います。ただし、このような対比を用いた譬えというのは、単に「種や成長する植物の素晴らしさや力強さ」を語っているのではなくて、もう少し深い意味、語られるべき知恵があります。

 主イエスは弟子たちに尋ねられ、この種を蒔く人のたとえについて説明をしています。「この譬えの意味は、こうである。種は神の言葉である……」(11節〜)。種は神の言葉です。だから重要なのです。だから、種蒔く人も重要です。

 四つのパターンの中に、「心」という語が出てきます。心から御言葉が奪い去られる(12節)、あるいは、立派な善い心で御言葉を聞く(15節)。また悪魔(12節)や試練(13節)という言葉も出てきます。人生を長く歩めば歩むほどに経験する、苦難のことがいわれています。三つ目のパターンは前の二つよりは良いように思います。実が実るまで期待されています。御言葉を聞いているのです。けれども、「途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない」(14節)といわれてしまう。私たちは、この形に一番共感できるかもしれません。

 最後のパターンは、「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」(15節)。ただ聞いているということではなくて、「実を結ぶ」といわれていることに注目したいと思います。

 種蒔く人は、神の言葉を蒔く、神に従う人なのです。その人が忍耐して、実りが得られるまで蒔き続けているのですから、蒔かれた方の人も、神の御前に成長することができるように、喜びがあることが知られるように。そのような未来が、ここでは言われているのでしょう。ここには救われること、導かれて実りを得ることの確かな希望があります。

 祈る私たちの存在が、神の存在に対して音叉のように反応するように、との言葉が記された本を思い出しました。きっと、このようなイメージを持つことも許されているのです。神が忍耐して、種を蒔いていてくださるのですから。

(降誕節第7主日礼拝 2月5日 片岡宝子牧師)