復活の意味

聖書 哀歌3章18〜33節 | マルコによる福音書10 章32〜45節

 イースターが近づくと、私たちは、喜ばしい春のお祝いの準備をします。

世の中でも、イースターの意味が少しずつ紹介されるようになって、関連の商品が並んでいます。けれども教会に来てびっくりすることは、そのイースターに至るまでに、主イエスの十字架の苦しみ、死、墓に葬られたこと、重々しい苦しみを語っているということです。イエス・キリストのよみがえりは、暗いところから始まります。そこからの復活なのです。

 

 マルコによる福音書は主イエスが歩まれた道のりを順序よく物語ります。イエス・キリストと弟子たちの一行はガリラヤ中の町や村をまわり、神の国が近づいたことを宣言します。イエスに論争を仕掛ける者たちも来ますが、その度にイエス・キリストは新しい教えをなさいます。

そうして言ってみれば、足取り軽く進んで行かれるのです。そしてイエスはエルサレムに向かう決意を固められ、都を目指す。弟子たちには受難と復活の予告をなされて、一直線にエルサレムに向かおうとするのです。

 

 ただ弟子たちとの会話をよく聞いていきますと、ざわつきを感じます。主イエスの栄光を仰ぎ見た弟子たちも、この後イエスがどのように進まれるかは分かっていないのです。主イエスの一行の足並みが重くなっていくような感じを受けるのです。

前の箇所で、一番弟子のペトロが栄光に輝く主を見て、「仮小屋を三つ建てましょう」とちぐはぐなことを言っていました。

ヤコブとヨハネも、主イエスの前で「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(37)と率直な願いを述べ、とんちんかんなことを言っています。

イエスは「(それは)わたしの決めることではない」(40)と、はっきり答えられます。弟子たちの無理解、おかしみのある会話。主イエスに最も近しい弟子、その次に近しい弟子たちですらこのようでした。

 

 主イエスは捕らえられる前、自分の受ける杯、十字架の苦しみを思って苦悩し祈ったのです。そこに弟子たちを伴われましたが、その時にも距離感がありました。不思議な近さもある、距離感。それは弟子たちが主イエスの辿られる道を同じようには辿ることができないという「しるし」であったかもしれないのです。

主イエスご自身も、苦しみの中で、足並みを遅くしていたかもしれないと想像ができます。

 

 今日はもう一つ、哀歌の言葉に聞きました。「エレミヤの哀歌」とも呼ばれます。ここにも重々しい歩みがあります。技巧的に編まれた詩で、節には、それぞれヘブライ語のアルファベットが順番に当てられ、深い哀しみや苦しみが込められるのです。3章18節には転換点があり、主を待ち望む希望が語られます。

21節では心が励まされ魂が新たにされるという状況を示し、22節では主の慈しみを賛美しています。しかしこれらは絶望の中の希望で、前後はすべて嘆きの言葉です。闇の中に追い立てられた者が、主によって変えられ、慈しみを絶やさないただお一人の方に信頼することにより、光がなくても歩いているという状況なのです。

 

 主イエスの一行も、決して軽い足取りではありませんでした。重々しく、足が揃わない時があった。弟子たちと主イエスの間に距離もあった。私たちが近づこうとしても近づけない、主にしか担えないものがあった。私たちに思いがあっても、そこに行けない。

ここに、私たちが主イエスに従って、主イエスに結ばれて復活する過程において、私たちがいつも軽い足取りだけではいられないのだということが指し示されています。

 

 私たちには足取りが重くなる時があるのです。そして考えて見てみますと、主イエスが苦しみを受けられたのは、私たちの罪の故なのです。

主イエスは神の子であり、無実の人であったのに、苦しみを受けるために歩まれました。神の目からは罪人と見られるような人間が、自分が受ける罪に対する罰を思って、足取りを重くしているのではない。主イエスの場合はそうではありませんでした。

よく語られる苦悩するヒーローが、ただ使命をもって困難な中にあるけれども突き進んでいく、その勇ましさを語っているのでもありません。「神に従う人」の道を、福音書は記しているのです。

 

 苦しみ、闇の中を歩かなくてはいけなくても、導かれて、ただお一人の方を信じて歩み続ける人の道を思い起こすことができますように。主は言われます。

 

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(43、44節)

 

(2022年4月3日 受難節第5主日礼拝 説教要旨 牧師 片岡宝子)

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