かわいかったモーセ

聖書 出エジプト記 2章1〜10節 | ヨハネによる福音書 6章27〜35節

 「生まれた男の子は、一人残らずナイル川に放り込め。女の子は皆、生かしておけ。」

 男の子に生まれて来るならば、命がない。そういう困難な時代に、モーセは生まれました。しかし、母親は王の命令に従わず、この子を隠した。理由が、さらりと書かれています。

 「その子が、かわいかった」

 皆さんは、これを読んで、こう思ったでしょうか。なるほど!かわいかったから、モーセの命は救われたのかと。普通、そんな風に読み飛ばしません。赤ちゃんが、かわいいのは当たり前じゃないか。そんなこと言うなら、うちの子だって、かわいい。大変な時代に、命が助かる理由は、ただかわいいから、なんてことがあるかと。

 でも、聖書が、わざわざ、かわいかったと伝える理由は何でしょうか。元の言葉を見ますと「トーブ」というヘブライ語が使われています。これは、かわいいだけでなく、愛らしい、立派な、という意味がある。そして、何より「良し」という意味を持つのです。男の子を産んだ母親は見ました。何を見たのか。その子が良いのを見た。この子はトーブな子だと。

 トーブ、旧約聖書で大切な言葉の一つです。神さまが天地を創造されたとき、ご覧になったものです。 

 「神は光を見て、良しとされた。」良し。これがトーブです。神さまは、天地創造で、良しを繰り返されます。地が混沌としていて、闇が深淵の面にある。闇の中、神さまは、すべてをお造りになって、それを良しとされました。

 ところで、今日の箇所で、神さまは、一切、姿を現しません。代わりに登場するのは、エジプトの王ファラオです。自分こそ神であると、人々の上に君臨する人間の支配者です。この絶対的な王のもと、神による救いは、どう実現するのか。その道筋を辿る深遠な物語が出エジプト記ですが、この始まりに、モーセは、全く無力な赤ん坊として誕生するのでした。モーセは、決して、英雄ではないんです。その意味では、ただ、素朴に、かわいかった。そうとしか言いようがない存在だった。見つかれば、即刻、命が奪われてしまう。息を殺すように、親子でひっそり隠れて生き、いよいよ隠しきれなくなった母親が、このかわいい良い子を、防水処理を施した箱に入れて、その行方を委ねます。すべては、この女性が、赤ん坊に「良し」を見つけ出したことから、静かに動き始めたことを、聖書は語るのです。

 母親に続いて、心動かされた女性が、ファラオの娘、王女でした。「これは、きっと、ヘブライ人の子です。」男の子を養子にして、モーセと名付けた。王女の行動のきっかけも、シンプルでした。彼女は、男の子を憐れに思った。かわいそうだと見過ごせなかった。この世から、良しが失われてしまうから。

 2人の女性、間をつないだ、その子の姉を入れると、3人の女性たちによって、赤子のモーセは、男児殺害の命令下、生き延びることになった。3人の女性たちが、勇敢だったからでしょうか。細かな人物描写はありませんし、本当のところはわかりません。

 しかし、聖書は伝えます。不意打ちのように、見捨てられない赤ん坊に出会った。そのとき、良しを見出して、女性たちが静かに動いたことを。困難な、良くない時代であってもなお、自分は何の力もない人間だと知っていても、人は良いことを見出し、良いことのために行動できるということを。この中心に、良しとされた、かわいかったモーセが、いたのです。

 女性たちの行動を見ると、裏側に、世の人たちが取るであろう行動が浮かび上がってきます。彼らは、神のように振る舞う王のもとで、ただじっと、この場をやり過ごすだけだった。秩序を乱さず、自らの命を、生き長らえさせるために、良くないことに身を任せている。それは、今の私たちが、良いことを見出そうと動かず、時代が悪い、社会が悪い、あなたが悪いと、良くないことばかりに目が向いてしまうことと違いがあるでしょうか。私たち、本当は、今この瞬間も、良い人間になれるはずなのです。人間の王ではなく、まことの王である神の業を見ようとするなら。

 今日、読まれたヨハネ福音書で、主イエスは、群衆に訊ねられます。「神の業を行うためには、何をしたら良いでしょうか?」主イエスは答えました。

 「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

 不思議な言い方です。神がお遣わしになった者を信じること、主イエス・キリストを信じなさいということです。それが、神の業であるという。それは、こう言っているようです。もう、あなたは、他の誰にも振りまわされなくて良いのです。神があなたを良しとしているのだから。ただ主を信じて、身を委ねなさい。それが神の良い業になるのです。

 信仰を与えられた私たちは、この流されやすい時代にあって、良いものに、じっと目を注ぎ、水の中から、良しを引き上げます。この手に、私たちを救い上げてくださる、神の業が現れるのを信じて。

(降誕前第6主日 幼児祝福礼拝・敬和デー 11月19日 片岡賢蔵伝道師)