神に向き直るには

聖書 創世記 3章1〜15節 | ヨハネによる福音書 3章13〜21節

 私が東京神学大学に入学する際に受けた筆記試験の問いは、「老いと若さについて述べよ」でした。東神大ってそういう試験出すのだなと、意外に思いながら、当日その試験問題を見て、色々と考え、私なりに回答しました。聖書の引用や、時事的なことにも言及し、老いと若さ、どちらも肯定すべきとする。模範回答は多分そういうところだっただろうと思います。出身牧師が良く語る面接も記憶に残ったのですが、この記述問題のテーマが記憶に残り、しばらく考えることになりました。

 人生には浮き沈みがあります。年老いていても、年若かったとしても、です。私自身は辛かった出来事などは、あまり思い出したくないと思うタイプですが、確かに人生に起伏があるような気がします。そのことを誰かと分かち合うことができたらもっと良いと思うのです。

 聖書には光と闇についての教えがあります。光が高いところを目指していくイメージだとしたら、闇は低いところに下っていくイメージでしょうか。登っていても闇に差し掛かるところもあるかもしれません。コントラストがあると言っても良いと思います。

 ヨハネによる福音書3章、議員ニコデモはある夜ひっそりとイエスもとにやってきて、教えを乞いました。言われたことは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(16節)。独り子というのはイエスご自身のことです。ここで光に向き直ることと光と共にあることとは同一視されています。裁きについても語られ、闇が光の先にあるということを思わせる教えとなっています。単に明るいところと暗いところが別であるという話でなく、光を見ようとしない、その闇の中にいる者たちの姿が教えられるのです。コントラストが示されます。

 今日の創世記3章に、最初に作られた人間アダムとエバの物語があります。神はあらかじめ、善悪の知識の木からは決して食べてはならないと言われていました。しかしアダムとエバは蛇のいるところの木の実を食べてしまいます。蛇はここでは賢さの象徴です。二人は自分たちが裸であることに気づきます。主なる神は園の中を歩き、アダムを呼ばれます。「どこにいるのか」(9節)と。アダムとエバは木の間に隠れてしまいます。

 この「どこにいるのか」という問いかけに対して、アダムもエバも顔を神に向けることができません。人間は神に背いてしまう、そういう存在です。単に明るい方が良い、暗い方がダメということではなくて、私たちにはアップダウンがあります。明るいところも暗いところも知っています。その中で、神に顔を向けることができるかどうかということが問われているのです。聖書では、神から全てが出ていると教えます。この後、弟殺しのカインの物語も続きますが、カインはやはり神の前で顔を上げることができません。しかし神の配慮によってさすらいの地に逃れることを許されます。

 根本的な悪との戦いについて考えることがあります。今、世界は混沌としていて、戦闘が起こり、以前からの紛争地におきましても硬直状態が続いています。何が良いことなのか、皆が迷っています。とにかく弱い立場にある人たちを守らなければいけないという、その思いだけは一致しているようです。私たちがどこにいるのか神に問われた時に、答えられるかどうか、考えられるかどうか。そのことに思いを寄せずにはおられません。

 降誕前の礼拝の招きの言葉は「真の礼拝をする者たちが霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」(ヨハネによる福音書4章23節)という言葉です。イエスが真の礼拝にあずかるべきサマリアの女に教えられた時の言葉です。その時には、「どの山で」ということではないのだということを主イエスはおっしゃいました。しかし現実には、それぞれの山にそれぞれの仕方で登って、礼拝をささげています。

 寛容さをもっていても、理想だけでは語り尽くせないことがあります。同じ目標を持ち、裾野から何かを築くことができるなら、それをしたら良いと思います。但し、大事なこととして、神からいただく聖なる霊と真理をもって礼拝するその時があなた方に必要である、ということを主イエスは教えられたのです。私たちがそれぞれの山から、唯一の神に心を向けること、真の礼拝をささげることが大事なのではないでしょうか。

(降誕前第8主日礼拝11月5日 聖徒の日 片岡宝子牧師)

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