按手を受けての所信表明(全文)

 直前に、コロナウイルスに感染しまして、11月25日、大宮教会で行われました按手式に出席できませんでした。関係者の皆様に、大変ご迷惑をおかけしました。ですが、今日、ここ東中通教会で、按手式を行うにあたって、尽力してくださった先生方、お集まりいただきました皆様に見守られて、こうして按手を受けられましたこと、主に感謝いたします。 

 人が、限られた時間と場所に囲まれて活動する生き物だとしたら、この時、この場を与えてくださっている、主に感謝いたします。直接的には、ウイルス感染症による追加の式ではありますが、関東教区にとって大切な按手式が、ここ新潟の地であり、また、私の仕える教会であることに、特別な意義を感じないわけにはいきません。この時、この場に、牧師としての出発点を開いてくださったことは、ただ神さまの憐みによるものと噛みしめています。

 神に召されたと私が確信し、伝道の准允を受けて、伝道師の務めが与えられましたのは、コロナ禍の真っ只中でした。さあ、主イエスの御言葉を宣べ伝えよう。そうして出会ったのは、マスクをして顔を塞がれたような教会の姿でした。大切に守り継いできた聖餐式は、これまでの形で執行することが、ゆるされない状況でした。配餐はせず、目を閉じて、制定の言葉をいただく仕方が続きました。このような状況から、いつ本来の形に戻れるのだろうか、という心持ちになりました。

 しかし、にもかかわらず、主イエスからの恵みを受けて、「満たされた」と心から感謝する教会員の姿が、あちらにもこちらからも、次第に、私の目の中に飛び込んできました。私は、自らが礼拝を整える務めを与えられたとばかりに、別のところに目が向かっていたようでした。そうではなく、主の恵みは、人間のどんな不完全な状況にもかかわらず、私たちに降り注がれているのです。だから、主イエスを首と仰ぐ公同教会の信仰を告白することにおいて、主の日ごとに礼拝が、主によって整えられ、聖礼典の執行が、主によってゆるされている、ということを確かにすることができるのでした。命の交わりを、いつどこにおいても絶やすことなく教会に起こしてくださる主が、この私の仕える教会においても生きておられるということに、何にも代えがきかない務めを託されている喜びに至ります。このことに仕えるために、教会は牧師を立て、私たちの教会と呼ばせていただけるだけでなく、主の教会として立つのだと思います。

 もう一つ、講壇の上に説教者として立つと、気づかされる事がありました。会衆席に座っているときには思いもしなかったほど、説教者は、多くの教会員に見つめられているのだと。こんなにも見つめ合う集まりが、今、教会の外で、どれほどあるでしょうか。この信仰者たちの顔と顔とを合わせる交わりの中心に、主イエスのまなざしを受けます。主イエスの言葉が、私たちの視線を、一点に集めてくださるのです。そうして、主イエスが、私たちの眼を開いてくださる。

「愛のあるところ、そこに眼がある。」ある人が言ったように、私にとっての教会とは、見つめられ、見つめ返す、顔の見える愛の交わりに生きるところです。

 コロナ禍以後へと時が進む中で、主御自身が、顔と顔とを合わせる交わりの回復を求められ、成し遂げてくださることに、私は全面的に委ねて、伝道牧会に励んでいきたい。この思いを強くしています。

 今、私は、按手を受けて、心から、主との見つめられ、見つめ返しの交わりに生き、神の言葉の説教と聖礼典とを執行するために仕え、主イエスの臨在を信じ、生き生きとした恵みに満ちている主の教会の牧師としての務めを果たしたいと願います。

関東教区秋季按手式(追加) 12月16日 片岡賢蔵牧師

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