クリスマス礼拝「まことの光を待つ」

聖書 イザヤ書 62章6節 | ヨハネによる福音書 1章1〜14節

 皆さんのご家庭にクリスマスの飾りは飾られましたでしょうか。私のことを申しますと、今年はクリスマスの飾りは全くありませんでした。飾る気持ちになってないのです。教会・幼稚園に来ればアドベント・クランツもカードも飾られています。クリスマス委員会と伝道委員会の皆さんが心を込めて準備した飾りを見て、嬉しい気持ちになります。でも帰ると、もう食べて寝るだけ。そんな生活です。ただ、こうして礼拝に集い、皆さんと賛美歌を歌って、祈って、聖餐を祝える。ここで御言葉に聞くことが、何よりの喜びだなと思わされます。

 1か月前の11月24日は、イスラエルとガザ地区の戦闘の休戦が始まった日でした。10日間の休戦です。一方には支援物資が届けられ、一方には人質が一部解放され戻ってきました。しかしなお、ガザ地区を実行支配する組織ハマスとイスラエルは対立しています。引き続き人道的停戦を求める心を持つ。それは言うまでもないことですが、不安もあります。誰が機能不全に陥った病院と学校を再建してくれるのでしょうか。待たれるのは休戦・終戦と復興の時です。

 イスラエル国家とパレスチナ人との関係・争いは長い歴史があり、どちらの側にも主張があります。この戦いは一体いつから始まったのでしょうか。答えは様々です。イスラエルの現代詩人で西暦2000年に亡くなったイェフダ・アミハイという人は、聖書にも記憶される年代を思い起こします。紀元70年、紀元前500年。その他、現代史として1917年(実際には年号は記されていない)、1948年。答えは様々でしょうから、一例としてあげました。

 いつから始まっただろう。そう考えながら、私たちは危機に陥った際、逃れ場所、シェルターを求めます。しかしそこにたどり着いても、安全が遠いままなら、救いが来ないと思わざるを得ません。人々は病んでしまいます。私たちは、救い主イエス・キリストの誕生を教えられ、喜んでいます。1日も早く憎悪が止み、憎悪をあおる言説が消え、非日常的なシェルターが除かれることを願っています。

 私たちは毎日曜に集まり、礼拝が終わって帰る時には「平和の挨拶」を交わします。平日もそれぞれの場所で礼拝しますので、その度に遣わされているのですが、特に日曜日、神がこの日から世界を始められたということを覚え、この地に光はあるということを信じて出かけていきます。思い起こしたいのは1週1週を大切に過ごすこと。そのためにも集まって、光を確信して出かけていくことです。祝福を運ぶ人になりたいと願うことです。本当になれるかどうかは分かりませんけれども、神が私たちを召してくださっているという思いを新たにさせられるのです。

 光であり命である方、この地で自分の命をささげて人々を救ったイエス・キリストについて、ヨハネ福音書では「初めに言(ことば)があった」(1節)と語り始めます。新約聖書の福音書の天地創造とも言われます。「言は神と共にあった。」(同)この言については、真理であったり、知恵であったりとする解釈があります。確かに知恵が神と共にある。ただ、ここで知恵や真理ばかりが強調されると、私たちのもとに来てくださった神の御子イエス・キリストのことは分かりません。

 「言は肉となってわたしたちの間に宿られた。」(14節)天地創造の業の前から御子イエス・キリストは神とおられ、神と等しい存在であるのです。なお肉を取られたのです。だから私たちは「わたしたちの間に宿られた言」によって神の光を知るのです。神に照らされたものとしてこの地を歩むのです。

 1章12節に「言は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とあります(13節も参照)。知恵や真理だけを考えては、なかなか理解できないところです。けれども驚くべき救いの物語、私たちのもとに宿られた救い主の光を見るなら、私たちに神の子となる資格が与えられるということも分かってきます。

 私たちは自分たちの歴史をどこから数え始めたら良いでしょうか。御子イエス・キリストと私たちが出会った時からと言って良いのではないでしょうか。光は暗闇の中で輝いている。ここに神の愛を見いだしたいと思います。神の愛は与えられ、慰めは与えられ、休む場所は与えられ、平和は与えられます。 暗闇の中で輝く光を私たちがいただいて、この歴史を振り返り、一週を見据えることができますように。

(待降節第4主日 クリスマス礼拝 12月24日 片岡宝子牧師)