喜びの声を待つ

聖書 イザヤ書 52章1〜10節 | ヨハネによる福音書 7章25〜31節

 アドベントに入りました。本日の旧約聖書はイザヤ書52章でした。この続きに、よく知られた「苦難の僕の歌」があります。その中に「彼」と呼ばれる、指し示された方が預言されています。「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。」(53章4節)「彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(同5節)。病や痛みがあっても、神が癒してくださるというのです。

 どうやって癒してくださるのか。ただお一人の方、メシアが苦しみを受けることによって。私たちが罪から解かれ、神の御前に再び生き、平和が与えられることによって。イザヤ書は、このようにイエス・キリストに繋がる預言を語ります。

 神は民を顧み、ご自身の前にその民を取り戻してくださる。古代より、その実現の時を待っていた人たちがいました。イザヤ書52章の始めは次のようでした。「奮い立て、奮い立て 力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。無割礼の汚れた者が あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。」(52章1節)紀元前6世紀、神殿が破壊されました。けれども未来に向かって、希望を持つよう預言が語られました。民は神ご自身によって買い戻され、関係は回復させられます。

 神の凱旋を想像させる預言が続きます。「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」(同7節)いかに美しいことか。この言葉を聞くだけで、とっても素敵な光景が目の前に広がってくるようです。戦地から遣わされたメッセンジャーが勝利を告げます。伝える者の足は、いかに美しいことか。日本人は自然の美しさや季節の移り変わりの侘び寂びに目を止めます。けれどもここでは、出来事が美しいのだ、という解釈があります。

 「あなたの神は王となられた」(同7節)。あなたは声を上げ、喜び歌う。これがいつの季節なのか、具体的には書かれていません。しかし将来、必ず起こる。神が帰ってこられる。神は、山々をも越えて、広い道を通って帰って来られる。この出来事が起こるので、美しいと教えられているのです。私たちは待降節に、このようなメシアについての預言、喜びの言葉を聞いています。

 実は、主イエスがベツレヘムで生まれた出来事も、時間の流れは記されますが季節については記されていません。もしかしたら、ベツレヘムのあの馬小屋の場面は、夏の涼しい風が吹いていた夜だったかもしれません。ただ、ヨハネ福音書には、イエス・キリストがどういう時期に、どういうことをされたのかということがある程度記述され、分かるようになっています。過越祭(3月か4月)や仮庵祭(9月か10月)の祝いの時期に、イエス・キリストがエルサレムに上っていったことが記されます。この後、ヨハネによる福音書10章に出てくる宮きよめは、汚された神殿が回復された、その出来事を記念するお祝いです。ユダヤ教徒の間で行われる、12月のハヌカ祭のことです。宮きよめの季節は冬であったと示す部分があり、季節感について伝えられるのです。

 イエス・キリストは私たちの置かれたこの地についに来られました。それは預言されていたことの成就で、まさに喜びの声をあげるべき、その出来事が起こった時でした。けれどもその時、その季節を、私たちは、いつもはっきりと確信している訳ではありません。だからこそ、預言の言葉に耳を傾けることが大事です。神が戻ってこられる、神が王として凱旋される、その出来事が本当に起こる。イエス・キリスト、神の御子と共に私たちは歩んでいるのに、その喜びの瞬間が分からないでいる。だからこそ、私たちは、神の介入される特別な時が、この私にも告げられるのだということを信じ、待つことが必要なのではないでしょうか。

 春夏秋冬という日本人が思い描くような、分かりやすい移り変わり、あるいは微妙な変化を示す預言ではないかもしれません。けれども、神の御子イエス・キリストの時代、その日々が始まること、その出来事に出会った者の喜びが、福音書にはっきりと示されています。神がこの地に平和をもたらすために来てくださいます。私たちの心に、このメッセージが響いていくことを待ち望みたいと思います。

(待降節第1主日礼拝12月3日 片岡宝子牧師)

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