砂漠よ、花を咲かせよ

聖書 イザヤ書35章1〜10節 | ルカによる福音書7章1〜10節

 「ああ、災いだ。」と嘆くところから、イザヤは預言者として召命を受けます。

 ウジヤ王が死んで、自分の頼りにしていたものはガラガラと崩れた。大国アッシリアとエジプトの戦争状態に挟まれ、自分たちの立つ所が揺らぎ、国が砂漠化していく時代でした。それでも、荒みゆくこの地に、本当の王として来られる、主の御言葉に耳を傾けたのです。世の王たちの政治的な見通しからは、距離を置いた。

 ただ主を信頼しなさい。必ず終わりに、正義と平和がもたらされ、あなたたちは救われる。そうイザヤは告げます。

「見よ、あなたたちの神を。敵を撃ち、悪に報いる神が来られる。」

 35章全体で、砂漠の復活という喜びの詩が響きますが、この4節では物騒なことが言われています。報復する神です。こういう言葉に出会うと、私たちは戸惑います。神は暴力を肯定する方なのかと。しかし、ここで言われている敵とは何でしょうか。

 

 実は35章だけ読んでいてもわからない。解く鍵は、直前の34章と合わせて読むことにあります。34章では神の裁き、35章では救いについて語られ、二つ合わせて、この世界の終わりの日の平和を伝えているからです。

 34章では、主が、すべての国を滅ぼす恐ろしい光景が広がります。しかし、不思議なことに、すべての人々に裁きを呼びかけながら、主が最後に狙いを定めて滅ぼすのは、エドムなのでした。なぜエドムか。どうもエドムが最後の敵のようなのです。

 エドムという地名は、死海の南の方、エドム人が居住する険しい山岳地帯のことです。エドムとイスラエルとは、長年に渡って仲が悪かった。エルサレム地方のシオンといえば、揺らぐことのない主御自身を象徴する要塞を意味しますが、エドムは、このシオンに敵対的な民なのです。紀元前586年、南王国ユダが、新バビロニアによって滅亡したとき、エドム人たちは、それを見て喜んだと言います。

 さらに言えば、エドム人たちの先祖とは、あのエサウです。エサウとその後のイスラエルと呼ばれるヤコブとは兄弟でした。創世記では、本来、長男として祝福を受ける立場にあるエサウから、ヤコブが奪う過程が描かれます。それで、ヤコブはお兄さんエサウの復讐を恐れ、罪の意識に苛まれつつ、エサウに会いに行く。このとき、天使と格闘して、しがみつき祝福していただく物語があります。

 そんな因縁の関係、イスラエルにとって、エドムとは消してしまいたいが、ずっと残り続ける罪を象徴する存在なのです。

 だから、単に復讐の暴力が肯定されているのではない。人間が神に立ち返ろうとするのを妨げる罪を、神が滅ぼすのです。ここに主の救いが起こります。

「見よ、あなたたちの神を。敵を撃ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」

 聖書は言います。あなたは復讐してはならない。それは神がなすことだと。神は私たち一人ひとりのエドムの問題を放っておかない。だから、この裁きは、神の愛のもう一つの側面でもあるのです。

そうやって改めて二つの章を見ていきますと、私には、34章で神さまのなさること、そして、35章で人間のなすべきことが言われているように思えてきました。滅ぼし尽くされたこの地に、神は呼びかけます。

「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。」

さあ、ここからは、人間たちの出番だ。

「弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。」

 この地は新しくつくり替えられた。そこに大路が敷かれます。大路とは、人間の手で作った道のことです。元の言葉では、積み上げるという意味があります。土を盛り上げて道を備えるのです。ただの道ではない。聖なる道と呼ばれます。

 主が完全に罪を滅ぼされた後、人間たちに聖なる道をつくりあげよと言うのです。教会は、砂漠、荒れ野を歩むようなときはいつでも、この聖なる道を思い起こしてきました。

 砂漠のような地でも、私たちには、できることがある。主の業に連なる奉仕の業が、人間には与えられています。だから、私は汚れた者だと、もう思わないでいただきたい。愚か者として迷う、とも言わないでほしい。聖なる道の土木事業に招かれた私たちは、もう汚れた者ではいられなくなるということです。主によって清くされたのです。この道は、主が守られる堅い砦、シオンにつながっています。

「主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。」

 イザヤの預言から時を経て、主イエス・キリストが真の王、救い主として、この地に来てくださいました。主イエスは、ガリラヤで、この主の道の宣教活動を始められた。主イエスは、砂漠化した、この地に降りて来られ、すべての人に、分け隔てない救いを宣べ伝えました。人間が人間らしくある、人間復活のプランは、既に開始されていると。

 さあ、花を咲かせよと。

(復活節第6主日礼拝 5月14日 片岡賢蔵伝道師)

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