敬虔な大儲け

聖書 アモス書8章4〜7節 | テモテへの手紙一6章1〜12節

 教会の中に、絶え間ない言い争いが生じている。それは信心を利得の道と考える者たちの間で起こると、今日の聖書は告げます。神さまを心から敬う信心と金持ちになろうとする欲とは釣り合いませんから、とんでもない考えだと思わされます。ですが、この人たちに警戒するよう言ったすぐ後に、一見、矛盾することが言われます。

 「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。」

 頭を悩ます教会の直接的な課題にぶつかる中で、真剣に考えていくと、突然、神学的に高められた、深い言葉に到達することがあります。この言葉は、私は金儲けなんて関係ないよ、と一歩引こうとする人も振り向かせる言葉です。

満ち足りることを知るなら、大きな益を得るとは、どういうことか。解く鍵は、ここで「信心」のことが言われていますが、「信仰」という言葉は使われていないということです。

 「信心」と「信仰」は似ているけれど、違う。人間の内にある心から神さまを信じる「人間の態度」が信心です。あの人は敬虔なクリスチャンだね、と言われるときも、信心のことを指します。それに対して信仰とは、人間の態度にかかわらず、「神さまから与えられる贈りもの」なのです。だから、信じて仰ぐとある通り、人間はただ受けるのみです。大切なことは、信心と信仰とを混同しないことです。自らの信心だけで益を得ようとするなら、高慢に陥ります。けれども、神さまから信仰が与えられたという、満ち足りることを知るなら、私たちは大きな益を受けるのです。この信仰あってこそ、私たちの信心は輝く。

 お金というのは、私たちの想像以上に、人間を捕らえてしまいます。私たちの中に、お金に苦労したことのない方は、ほとんどいないのではないでしょうか。お金は生活と結びつくからです。しかし、金銭を追い求めるようになると、信仰から迷い出てしまいます。そこから、さまざまのひどい苦しみで突き刺される。そうではなく、信仰を追い求めるなら、金銭欲から脱し、苦しみを遠ざけることができるのです。信仰こそが、人間をあらゆる欲の罪に陥ることから引き離します。信仰は、私たちに、本当に満ち足りることを知らせるからです。

 それでも、ここまできて、ため息をつく人がいるかもしれない。私に、そういう強い信仰があればなあと。でも、ここで、イエス様のお言葉を思い出していただきたい。マタイ福音書によれば、イエス様は、私たちをこう呼ばれました。

「信仰の薄い者たちよ」(マタイ6章30節)

 薄い信仰、と聞くと、ネガティブに思うかもしれません。でも、ここで言われているのは、「オリゴピストス」というギリシア語なのですが、必ずしも否定的な意味合いが込められているのではありません。ピストスとは信仰のこと。オリゴとは、オリゴ糖というものがあるように、ただ小さいという意味です。私たちには、信仰がないのではない。イエス様は、小さい信仰が、私たちに与えられていることに気づかせているんです。

 小さい信仰には、意味がある。自分に与えられた小さいけれど、確かにある、この信仰を通して、神さまが、この私とつながってくださることを知るからです。このことを知って、満ち足りるものがある。自分に与えられたものが大きかったら、私たちは、天を見上げることもしないでしょう。小さい信仰だからこそ、天の豊かさに目が向かう。神さまのおられる天は、どれほど大きく豊かであろうか。神さまは、大いなる御手の業で、この世界を創造され、私たちに生きる命を与えてくださいます。イエス様は、続けて言います。

「小さい信仰を持つ者たちよ。だから何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って思い悩むな。」

 あなたは、十分に満ち足りている。今日の聖書でも言われています。食べるものと着るものがあれば、それで満足ではないか。私たちは、何も持たずに生まれ、何も持たずに世を去るのだから。

 信仰を抱いて、満ち足りることを知ると、私たちは、ものの見方を大きく変えることができます。確かに、この世は生きづらい。突然、自然災害や戦争によって、財産や、すべてを失う人が、今もたくさんいます。でも、多くを失ったと感じるのは、多くを与えられていたから。かけがえのない人との別れがある。でも、それは、かけがえのない人との出会いを与えられていたから。そう気づく。

 生きてるだけで丸儲け、なんて言葉があるけれど、生きていることに意味を与えるのが、小さな信仰です。この信仰が、私たちを天に結びます。

 「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で、立派に信仰を表明したのです。」

 目の前の富に縛られず、小さな信仰で、本当に満ち足りることがあるのを、この世に知らせていくために、私たちは神さまに呼び集められています。

(聖霊降臨節第18主日礼拝9月24日 片岡賢蔵伝道師)

投稿者プロフィール

あかしびと
あかしびと