真理はあなたたちを自由にする

聖書 ヨブ記22章11〜28節 | ヨハネによる福音書 8章21〜36節

真理という言葉が、聖書に登場するとき、それは第一に、神さま御自身、そして、神さまについて知ることが関係しています。私たちにとって、神さまは、探し求めるべき存在に思える。が、決して、私たちの手の届かないところにおられるというのではない。「わたしはある」と呼びかけられます。「わたしはある」そう神さまに呼びかけられて、神を知ること。これが真理です。

自由という言葉が、聖書に登場するとき、それは第一に、罪について、罪との関係の中で語られています。今日の箇所、ヨハネ福音書8章を読むと、主イエスが、ずっと罪について言われていることに気づきます。

「はっきり言っておく。罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である。」

ですから「真理はあなたたちを自由にする」というのは、こういう風に言えます。「神について知ること、それが、あなたたちの罪の赦しになる。」

主イエスは、ただ一つのことを願っています。神は、この世に罪赦されて生きる人間の姿をつくりだす。この姿を、あなたたちが引き受けるのだと。30節に、こうあります。

「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。」

イエスを信じた。それで良いなら、主イエスの説教は、30節までで終わっていました。しかし、ただ信じただけでは良くなかった。このことは、私たちを、どきりとさせます。自由を得て、人間は、どこに向かうのか。主イエスは、ただ信じることから、さらに先へ足を踏み入れさせます。罪赦されるところに立った人間が、今度は、罪を赦すことを覚えることです。だから、そういう人間のことを、キリストは、わたしの弟子と呼びました。

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理は、あなたたちを自由にする。」

しばしば、日本の教会の弱いところは、罪の赦しに生きていないことにある、と指摘されることがあります。そもそも、私たちは、罪を直視することに耐えられない。教会で、牧師は、こう言われることがあるかもしれない。先生、あまり、罪、罪、と言い過ぎないでください。あなたは罪人だ、と言われて、教会に足を運びたいと思える人は少ない。あなたの罪を悔い改めよ。そう言われると、却って自分の罪に目がいってしまい、身動きができなく、苦しくなってしまう。こんなことは、よくありそうです。

けれども、罪から目を逸らすなら、あなたは、人の罪を赦すことができない。あなたたちの自由もない。主イエスは、しつこいほどに言います。

「罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である。」

私たちが手にしているのは、もはや罪を犯す者か、あるいは、罪を犯さない者か、そういう二択ではないのです。私たちは、罪を犯す者としてある。誰もが、罪の奴隷である。罪とは、一方の人間が、他方の人間を裁けるようなものとしてあるのではない。まるで交通事故に遭遇して、私が悪いのではない。ここに居合わせただけ。私は、ここでしか生きることができなかったのだから。そうやって、自分を正当化するとき、私たちは誰でも、罪から逃れられない。罪の奴隷である。

キリストが人間を見つめるとき、善人と悪人の区別はありません。罪は、等しく、私たちの内にある。だから、しっかり目を逸らさないように、主イエスは言います。

「わたしの言葉にとどまるならば」と。だからこそ、わたしの言葉にしがみつきなさい。ただ真理にしがみつく。

「そうすれば、あなたたちは真理を知り、真理は、あなたたちを自由にする。」

真理にしがみつくことで、私たちは、何度でも、力強く立ち上がることができるのです。真理にしがみつくことが、人を臆病者ではなくす。罪に惑わされ、びくびくする臆病者にならずに済むだけでなく、人の罪を赦すことができるようになる。反対に「私は決して罪を犯さない」という強い意思のようなものが、あなたを善くするのでもない。それでは却って、大きな過ちを犯すことになりかねません。そうではなく、神にしがみつく。これが悔い改めです。キリストは、ここで、人間が罪を犯すことの負の連鎖を断ち切って、あなたに宣言します。

「あなたの罪は赦された」

 罪の赦しを告げるお方、この方こそ、主イエス・キリスト、私たちの神である。このことが、どれほど、私たちを慰め、力を与え、私たちを自由にすることでしょうか。教会は、人を裁くために、牧師を立てるのではない。罪の赦しのため、牧師を立てます。牧師は、主日の説教の毎に、罪の赦しを宣言します。牧師は、主イエスに託された、天の国の鍵を持っています。陰府の力もこれに対抗できない。地上での罪の赦しの出来事が、天の国の出来事になるからです。こうして、私たちは、罪を赦された者として力強く生きていきます。罪の赦しを確信した、改革者ルターは、言いました。

 「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ。大胆に悔い改めて大胆に祈れ。」

(降誕節第5主日 1月28日 牧師 片岡賢蔵)

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