聖なる足音

聖書 申命記6章17〜25節 | ローマの信徒への手紙 10章5〜17節

 信じる者は、救われる。よく聞く言葉です。面白い言葉です。信じていれば、どんなに困難があっても幸せでいられるわけです。その人は救われていると言える。反対に、信じることがなければ、その人は救われていない。その間もありそうです。信じたけれど、救われていない……。いや、信じて救われているはずだけれど、いつの間にか、信仰の熱は冷め、救いの実感がないと嘆く。しばしば、私たちが陥ることです。

 古代イスラエルの民も、このことに、つまずきました。神を信じたのに、なぜか救われない人間が生まれている。パウロは、このことに真剣に向き合います。

 聖書には「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」とある。おかしいではないか。神はすべての人をお恵みになる方である。であるなら、人間の信仰の問題は、どうして起こっているのか。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

 パウロは、信仰は私たちの行動から始まるのではないと強調します。神が、福音の良い知らせを届けてくださる。このために、宣べ伝える者たちを遣わす。だから、私たちはキリストの言葉を聞くことができます。すべて神の行動によって、私たちの信仰が始まる。ここに人の救いが起こされるのです。

 しかし、すべての人が福音に従ったのではありませんでした。福音が耳に届いているのに、聞き従えないのです。呼びかける存在を前にして応答ができていない。

思えば、聖書に、最初に「聞く」という行為が登場するのは、どこでしょうか。それは、創世記、エデンの園に住んでいたアダムとエバの物語に現れます。女は、蛇に唆されて、園の中央に生えている木の果実を取って食べてしまう。一緒にいた男も食べた。すると、裸であることを知った。

 その日、風の吹くころ、主なる神が、園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムとエバが、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神は、呼ばれます。「どこにいるのか。」アダムは答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。」

 彼らは、主なる神が歩く音を聞いたんです。それが、聖書で、人間が「聞く」ことをした最初です。こうして、神に反抗的で頑な、あの園を追放された人間の歴史が始まった。実は、ずっと呼び求めてくださっていたのは、神さまの方なのでした。「どこにいるのか。」人間に、神の声は聞こえていたけれども、出ていくことができなかった。

やがて、時が満ちて、神さまは、御子なるイエスを、この地にお遣わしになりました。この地上を、主イエスは歩き回ったんです。目の見えない人、耳の聞こえない人、貧しい民のもとを訪ね歩いた。主イエスは赦しの宣言をなさり続けました。「恐れるな。出てきなさい。」

 しかし、ここでも、イエスを主としない反抗する声が起こった。そうして、最も恐ろしい神の子の十字架の上での死が起こった。主の十字架は、キリストの言葉を聞いたのに、聞き従わない者たちによって引き起こされました。それでも、終わりではなかった。神の声を葬り去ろうとする人間の闇から、死者のうちから、主イエスは、およみがえりになられた。最も喜ばしい、復活の出来事が起こされたのでした。

 もはや、人間が恐れるものは、何一つないのです。私たちは、そんな資格もないままに、キリストを通して、神の御前に進み出ることを赦されていると知ったのですから。

信仰による義とは何か。あなたの信仰は、あなたの故にではなく、ただ神が近くあることによって、生まれるということ。神の近さが、あなたに義をもたらすということです。

なのに、なぜ、私たちは自分の信仰が小さいと嘆くのか。なぜ、自分は良くないことを繰り返すと悩むのか。なぜ、自分自身で正しい人になろうとするのでしょうか。

神が近くおられるなら、信仰は小さいままでいられるでしょうか。神が近くおられるなら、善い人でいられない、なんてことがあるでしょうか。神が近くおられるなら、過ちが赦されないまま放って置かれる、なんてことがあるでしょうか。

今や、神の言葉は、漠然と響くのではない。御声は、再び、足音を伴っているんです。扉の向こうから、近づいて来られている。

「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」

汗だくになり、身体を張って、十字架にかかってまで、良い知らせを伝えるために遣わされたのは、何より、主イエスなのです。

(聖霊降臨節第3主日 6月2日 牧師 片岡賢蔵)

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