神の主権
聖書 申命記 30章11〜15節 マルコによる福音書 1章21〜28節
雪深い朝を迎えました。雪国と神の国の間に近さはあるでしょうか。雪は私たちの思いとは関わりなく降り続けます。聖霊もまた降り注ぐ。イエス様が来られて以来、ずっと聖霊は主の教会に降り注いでいます。それが恵みだと気づくのは後からでしょう。
主イエスは神の国の宣教のため、カファルナウムに入られます。慰めの村という名の町で、安息日に会堂に入って教え始められた。ちょうど今の私たちのように神を礼拝します。
そこにただならぬ男がいました。汚れた霊に取りつかれた男です。どきりとさせられませんか。汚れた霊は神を礼拝する場に当たり前のような顔をして座っていた。もしかしたら「アーメン」と言っていたかもしれない。悪霊が神を礼拝する場にいるなんて、おかしな光景に思えます。ですが実は、私たち自身の姿に似ていないでしょうか。礼拝に集い、祈り、賛美し、御言葉に耳を傾けながら、礼拝の前と後で何も変わらない。私たちも汚れた霊をそのまま持ち帰っていないだろうか。
マルコ福音書は問いかけます。それは権威ある教えを欠いているからでは……。「これは何事か。権威ある新しい教えだ。」イエス様が口を開かれた瞬間、会堂の空気は一変します。人々は驚きました。主イエスの語る言葉が満ちるとき、自分の胸の内に隠してきた闇が耐えきれなくなり、出ていくのです。それが主イエスのおられる礼拝で起こることです。
「権威」とは何でしょうか。ギリシア語の元の意味を直訳するなら、委ねられた力と言えそうです。委ねようとする主体から信頼されて成り立つもののことです。つまり、単なる力、それも暴力とか強制的に支配する力とは異なります。
イエス様の教えは、父なる神に全く委ねられ、委ねるようにして溢れ出る、神の言葉の生きた力です。だから、主イエスを通して、人々は神に出会いました。主イエスは権威を伴って命じます。「黙れ。この人から出ていけ。」
汚れた霊、悪霊の正体は何でしょうか。悪霊は言います。「ナザレのイエス、我々を滅ぼしに来たのか。」注目したいのは「我々」と複数形で叫んでいることです。取り憑かれた男は1人ですが、1人の人間に悪霊1体ではない。取り憑いていた霊が、うようよいます。この男は内側で、ばらばらにされている。分裂した複数の声が彼を支配して苦しめています。
私たちも思い当たります。普通に人生を過ごしていたとしても、私たちを苦しめる声は、所々で忍び寄ってきます。過去に犯した失敗、周囲の冷たい視線、社会の閉塞感、健康への不安、家族の悩み……あんなこと言わなければよかった。あの人のあの発言がいつまでもこびりついている。そうした無数の声が自分の中でざわめき始め、気づいたときには、どうすることもできなく病んでしまうのです。
もちろん、それら一つ一つは対処しなくてはならない現実の課題です。しかし、それらを用いて希望を閉ざし、人を立ち上がらせるのではなく、打ち倒すざわめきがあるなら、それは汚れた霊が居座ることと違わないのではないか。我々という大勢の声は複雑に絡み合っていて、私たちはアワアワと立ち尽くすのみです。主イエスは、そんな私たちの側に立って言います。「黙れ、この人から出ていけ。」神お一人が汚れた霊と対峙できます。私たちが耳を傾けるべきは不特定多数の声ではない。その御名を、はっきりと呼べる、あのナザレの人、主イエス・キリストです。主イエスに委ねるところ、神の権威が働くところで、汚れた霊を退かせます。
ドイツの牧師ブルームハルトの祈りを思い起こします。彼はカファルナウムの男と同じように、汚れた霊に苦しむ一人の女性のために祈り続けました。最初は「彼女を治してください」と祈っていた。しかし、状況はよくならず、2年が過ぎます。絶望的になる中、彼の祈りは変えられていきます。「ダイン・ライヒ・コメ(御国が来ますように)」自分の要求ではなく、ここに神の統治が現れますように祈った。やがて彼女の中の悪霊は叫んで出ていきます。「イエスは勝利者だ!」その日以降、彼女はすっかり良くなりました。
この出来事が教えるのは、奇跡そのものではありません。神の主権が現れるところに、二度と覆されない宣言が立つということです。主イエスは十字架の苦しみを経て、ひっくり返ることのない復活の勝利を、この地にもたらしました。今朝の申命記は語ります。「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にある。」
神の主権は、遠い天の上の話ではありません。主イエスによって、御国がこの地になったのです。ここも神の主権のあるところです。この福音を知るなら、私たちは、本来あるべき姿で立ち上がります。
(降誕節第5主日礼拝 1月25日 牧師片岡賢蔵)
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