どうかお怒りにならず、もう一度
聖書 士師記6章36〜40節 | ヨハネの手紙一5章1〜5節
今日は、平和聖日の礼拝を捧げています。キリスト者は平和をつくる者の使命を帯びています。ですが、聖書には敵対する異民族は根絶やしにするよう命じる言葉もある。平和のためなら戦争を肯定するような言葉に戸惑いを感じる方もいらっしゃるでしょう。しかし、このことは、聖書が人間による安易な平和を告げていないことを表すのではないでしょうか。聖書全体を通して浮かぶのは、破壊が目的なのではなく、地上のあらゆる者すべてが神のご支配のもとにあるというメッセージだからです。
士師記におけるギデオンの闘いも、主に立ち返るところに平和があることを伝えます。6章の冒頭に、こうあります。「イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを7年間、ミディアン人の手に渡された。」ミディアン人というラクダに乗った遊牧民が当時は大きな脅威となった。彼らは、せっかく育てた畑の収穫や家畜を根こそぎ奪っていく。しかし、敵が悪いとするのではなく、イスラエルの人々が、主なる神から離れてしまったことから引き起こされたとしています。
ギデオンは、最も貧弱な一族で、最も年下の者です。現在、「ギデオン聖書」というホテルなどへ聖書を配布する活動を行うギデオン協会は、この人物の名から取られた団体です。ギデオンは、なぜ私が…と戸惑いながら、主からの呼びかけに応え、敵に立ち向かうリーダーとして立てられていく。今にも戦闘が始まろうとするとき、ギデオンは、本当に、主の召しておられる戦いなのか試します。静かで清らかな朝の光景が浮かぶようです。
しかし、何かが、おかしいのです。実は、この場面に、主は現れていません。どういうことか。6章、7章を通して、ギデオンが対話をする相手は、必ず主なる神です。ですが、今日の箇所では主と呼ばれなく、ただ神となっています。
「ギデオンは神にこう言った。」(36節)「ギデオンはまた神に言った。」(39節)
主が共におられるかどうかは伏せられています。さらに、38節では「すると、そのようになった。」とだけ、あります。神がなさった、とも伝えていません。
私たちにも思い至ります。神さまの御心が何なのか、わからなくなる。主は共におられるのだろうか。私が祈っている主の姿が見えてこない。
ギデオンは、この沈黙を受け止めます。喜ぶこともなく、静かに羊の毛から露を絞り出していく。ギデオンは本当に慎重な性格で、主の御心かどうかを丁寧に受け取る人だったのでしょう。もう避けられないように見える戦闘を引き延ばす行為をします。「どうかお怒りにならず、もう一度言わせてください。」畏れ多い神に、もう一度、試させてください、と願うのです。
どうかお怒りにならず、もう一度言わせてください。それは、人間にできる精一杯の神さまへの応答ではないでしょうか。往生際の悪い取引を行うようなものです。もう負けを認めるしかないところで、引き下がらず、何とかお願いします、と神に願うのです。
翌朝、ギデオンが願った通り、前日とは正反対のことが起こったのでした。羊の毛だけが乾いていて、土には一面、露が置かれていた。今度は、「その夜、神はそのようにされた。」と伝えます。確かに主がおられると、はっきりわかる形ではない。けれども、新しい朝の光景が広がっていたのでした。ここに、私たちが、しばしば曖昧にしてしまう「平和」について考えるヒントがあるように思います。
この後、ギデオンは、主のお告げに従い、勝利して民を救いますが、ギデオンの死後、再びイスラエルの人々は、主への信仰を捨てて、バアルの神へ向かってしまいます。ですから、聖書は、ギデオンが全て正しいという評価をしているのでもありません。こうして、どうしても真の主を待ち望む、メシアの到来を待ち望むしかないところに、イスラエルは向かって行きます。合わせて読まれた新約聖書は、告げています。
「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。
……神から生まれた人は皆、世に打ち勝つ」
主イエス・キリストが、再び来てくださることが、私たちにはどうしても必要です。シャーローム、ここに平和を待ち望む人間のなすべきことが、あります。私たちは、いつまでも止まない争いの中、疲れ果て、無力な者とされています。だからこそ、主に祈り願うのです。
「どうかお怒りにならず、もう一度、主イエスよ、今すぐ、来てください。」
(聖霊降臨節第12主日平和聖日 8月4日 牧師 片岡賢蔵)
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