キリストとキリスト

聖書 ヨブ記42章1〜6節 | フィリピの信徒への手紙 1章12節〜30節

 世界の教会で広く読み継がれてきた信仰問答「ハイデルベルク信仰問答」は、次の問いで始まります。

 「問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただひとつの慰めは何ですか。」

 「答 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」

 このわたしは、わたしのものではない。この体と魂は、キリストのものだと告白します。それが、わたしのただ一つの慰めになるのです。しかも、それは生きることだけでなく、死ぬことにおいても同じです。

「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」伝道者パウロは、教会の人々に向けて宣言します。わたしたちは、この世界を、神に愛された子イエス・キリストとして歩むのです。そう考えて一歩足を踏み出すなら、全く景色が変わって見えないでしょうか。この世界を生きていくことに恐れることは一つもないのだと。これが私たちの救い、慰めです。でも、後半の言葉は引っかかります。

「死ぬことは、利益です。」

わたしが、この世を去ることに喜びを見ている。むしろ、このことを望んでいる。私たちは、しばしば、こんな思いに駆られることがあります。この世で愛する人と一緒になれなかった。だから、死後の世界で愛するあの人と一緒になろう。あるいは、家族に先立たれてしまって、わたしには、もう生きがいが見つからない。早いところ、この世から旅立ってしまいたい。

 ですが、ここで言われていることは違います。生きることはキリスト、キリストが、わたしの内にあって生きている。そういう喜びの生き方を知った。しかし、この世では、完全にキリストと共にある生活というのができないことも知っています。わたしは、何度もキリストを離れてしまう。だから、この世を離れることは、いよいよ、キリストと完全に共にある生活に入る、そのことをわたしにとって利益だと言うのです。私たちは、生きるにも死ぬにも、真実な救い主イエス・キリストのものであることが、ただ一つの深い慰めになるのです。そんな慰めは、ほかに知らないからです。

パウロは、二つのことの間で揺れています。この地で生きていくことと、この世を去って天の住まいに向かうこと、どちらがよいのか分からない。板挟みになっている。ここで、使われている「板挟み」という言葉は、元のギリシア語で、強く押し付けられている様を表します。コリントの信徒への手紙二5章14節でも使われていて、そこでは「駆り立てている」と訳されています。

「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」

すると、見えてくるのではないでしょうか。見上げれば、上なるキリストがいる。キリストは、死んで3日の後に復活され、天に挙げられて、今、父なる神と共におられる。しかし、キリストの愛ゆえに、下にもキリストがいるのです。天と地と、二つの領域から、私たちを駆り立てているキリストの姿が見えてくる。天上のキリストと地上のキリスト。この二つから、わたしたちは板挟みになっているのです。これがキリスト者として生きることだ。私たちに与えられた生は、私たちの方が頑張る信仰ではない。キリストの方が、右腕と左腕とで私たちを駆り立てるようにして、いついかなるときも共にあるということなのです。このキリストを本当に信頼する、キリストの中に、キリストへ、このわたしを投げ込んでしまう。そういう生き方があるのです。

 だから、キリストに捕らえられた者にとって、もはや生きることと死ぬことの間に断絶はありません。私たちの生は死んだら終わりではない。キリストが生も死も貫いていて、どちらにしても、私たちは喜ぶことになるのです。キリストは、お一人だからです。

 パウロは言います。そうであれば、肉に留まり、教会のために役立ちたいと。「こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。」

 

 パウロは、地上に留まり、幾度も牢獄に入れられ、ついには殉教の死を遂げることになりました。それは自分のために選んだ道ではなく、この地に喜びの福音が前進していくことに身を任せていたからです。わたしの中に、キリストが入ってくださり、キリストが段々と大きくなっていく。このことが目に見えるように、キリストの体である教会は、今も世界各地に立ち続けています。

(聖霊降臨節第21主日礼拝 世界聖餐日・世界宣教日10 月6日 牧師 片岡賢蔵)

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