捨てられたイエス
聖書 ヨシュア記24章14〜24節 | ヨハネによる福音書 6章60〜71節
ヨハネ福音書が、ほかの福音書記者の誰より多く伝えていることがあります。それは愛について。主イエスに愛された弟子が、愛について伝える書、それがヨハネ福音書です。この愛は、師から弟子たちが離れていくという愛が失われつつある只中にも、燃えるような主の愛として浮かびあがります。
人々は、自分の期待した救い主ではなかったと、イエスから、続々と離れていきました。従う者は、ごくわずか。残った12人に言われました。
「あなたがたも、離れて行きたいか。」
弟子たちが、離れて行ったのは、主イエスが「わたしは天から降ってきたパンである」と言った言葉の意味を飲み込めなかったからでした。つまずいてしまう。主イエスは、ため息をつくように言われます。
「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子が、もといた所に上るのを見るならば……。」
……。口にしていないけれど、略された言葉があるということです。シンプルに読めば「もっと、つまずく」と言われているのでしょう。人の子が、もといたところに上る。主イエスが天に上ること、しかも十字架に上られることで、天に上ることを明らかにされた。実際、十字架の出来事は、弟子たちに、大きなつまずきを、もたらしました。
今日、礼拝の中で、私たちは、聖餐式を祝います。イエスさまの体という、天から降られた命のパンを、共に分かち合うことによって、主イエスと私たちがつながっていることを確かにします。パンをいただいた私たちは、苦しみを受けて、十字架の上で死なれ、復活し、昇天された主イエスに結ばれて、天の父なる神につながるということです。それが、主イエスの示された神の愛です。神の愛は、漠然としたものではなく、命のパンである。いただくことで、神に至る一つの道が完結するということなのです。
ですが、そんな喜びも、当時の弟子たちには、つまずきでしかなかった。愛する弟子たちから捨てられる中、主イエスは、言われました。
「あなたがた、十二人は、わたしが選んだのではないか。」
そしてすぐ、こちらが、ぎょっとする言葉を吐く。
「ところが、その中の一人は悪魔だ。」
後に、主イエスを裏切るイスカリオテのユダのことを言われた。裏切るとわかっていて、なぜ十二人を選ぶのか。十一人にしておけばよかったではないか。私たちは思います。神さまには、はじめから、わかっていたことではないか。なのに、主イエスは、裏切り者のユダを十二人の内に数えて、わたしが選んだと言われたのです。
神が、ある人間を選ぶということは、昔から、私たちには、大変、理解が困難なことです。天国に行く人、地獄に行く人は、あらかじめ決められているのだろうか。私たちには、どうあがいても変えられない運命というものがあるのだろうか。神の選びについて、いろんな世の考えがあります。けれども、ここで、ヨハネ福音書が大切にしていることを思い起こすならば、神が選ぶというのは、神が愛することと共にあるのではないかと思えてきます。たとえ弟子たちが自分を見捨て、裏切る、この一人は悪魔であるとしても、主イエスは、「わたしが、この十二人の弟子を愛した。」そう言っているのではないか。
あいつは裏切りそうだから、外そう、愛するのを止めよう、なんてことを、主イエスは、なさらない。だから、主イエスの受けた苦しみは、どこまでも深い。厳しい戦いを生きられています。十字架にかかられる前、主イエスの姿を、ヨハネ福音書は、こう伝えています。
「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」
既に、悪魔が入り込んだユダをも愛する。弟子たちの足を洗って、清くされました。だからこそ、主イエスの十字架の出来事は、私たち人間すべてに関わってきます。特別に愛した弟子の内にまで、悪魔が入り込んでくる。そういうぎりぎりのところに身を置いて、人間を、この上なく愛し抜かれた。
最初から、神の勝利が、はっきりとわかるような安全地帯ではないところに身を置かれ、人を愛されたんです。私たちの方が捨て、私たちの方から離れて行こうとも、神は、わたしがあなたを選んだと言われます。
「あなたがたは、わたしが選んだ。」この愛の声を、私たちに響かせています。それでも、わたしから離れていきたいのか。それは、主イエスの愛を確かにするための確認です。
(受難節第3主日 3月3日 牧師 片岡賢蔵)
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