弁護者、すなわち真理の霊が来る

聖書 エゼキエル書 36章24〜28節 | ヨハネによる福音書 15章18〜27節

 主イエスは、聖霊を彼と呼びます。彼は弁護者である。昔の聖書では、助け主と呼ばれていました。助けてくれるんです。いわれもない罪で捕らえられたとき、弁護士を呼んでくれ、と頼み込む。そうして、弁護者は、この私が、うまく言葉にできないでいることも、堂々と語り出します。言葉にして証言してくれる頼もしい存在です。

聖霊は、そのようにして、私たちに言葉を語らせます。どんな言葉でしょうか。イエス・キリストを証しする言葉です。

「真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」そうして、聖霊により証しがなされるとき、ここに主イエスが留まっておられるのを確かめられるのです。

私たちは、礼拝の中で、父・子・聖霊、それらが別々の神としてあるのではなく、3つにいまして1つである、この三位一体の神を信じます、と告白します。この事は、人間には、なかなか捉えがたいのですが、神さまの内にある交わりが、どれほどに深いものであるかを知ることができる秘儀なのです。「父よ」「子よ」「聖霊よ」互いに呼び合う愛の交わりが、神さまの内にあって、しかも、この聖霊を与えてくださることによって、この交わりが、私たち人間へと開かれたのです。私たちも神の交わりの中に入れられて、神と人とがつながり合っている。神が共におられることを、お示しくださったのです。何という驚くべきことでしょうか。聖霊なる神の業について、エゼキエル書の言葉も与えられました。

「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から、石の心を取り除き、肉の心を与える。」

面白い言葉です。聖霊が私たちに注がれるとき、石のように冷たく硬い心が取り除かれる。肉の心、血が通っている心が与えられます。ですから、聖霊は実体のないものではないのです。神が、人間に触れるということ。神の言葉が、私たちの体に入ってきて、心に触れてくださり、頑なさを取り除き、生き生きとしたものにつくり変えてしまいます。

ヨハネ福音書は、弁護者である聖霊のことを、すなわち真理の霊が来ると伝えます。聖霊が注がれるまで、弟子たちは、真理を語ることができないでいました。恐ろしかったからです。主イエスが捕らえられ、十字架につけられて殺されてしまった。真理を語ると、世から憎まれてしまいます。私たちには世で苦難があることを、イエス様はご存知でした。そこで、弟子たちが、後から思い起こせるよう宣言します。

「あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。」

キリストに従う者は、世に属していないのです。主イエスに選び出され、真理を語る者とされます。キリスト者は、真理に生きるようになる。それは同時に、世から迫害されることでもあります。でも、どんなに迫害に遭おうとも、真理を語ろうとする人間にこそ、キリストの救いが及んで来ます。

キリストこそ、神の真理を語り続けることを諦めない方でした。人間は意味なく生きて、虚しく滅んでいってよい存在ではない。なのに、あなたは偽りの人生を歩んでいないか。今、虚しい言葉に取り囲まれていないだろうか。世界は、目に見えているもので完結していない。見えないものに目を注ごう。そうやって、神さまは、私たちを連れ出すんです。虚しく崩れるところから、しっかりと立つことのできる確かなところへと。それは、何も難しい事柄なのではありません。聖霊を受けて、私たちが礼拝している最中に起こります。さらに言うなら、あの短い一言の中にも起こるのです。それは、祈るときのアーメンという言葉を口にするときです。アーメンというのは、ヘブライ語で、真理を意味する言葉と近い。「確かに」とか、「間違いなく真実の言葉である」という意味を持ちます。

「アーメン。」聖霊によって、口を開かされるとき、ここに確かなことが出現します。とっても小さな一言です。けれども、一人ひとりのアーメンが重なり合って、教会は確かな足がかりを得るのです。ここから、私たちは、新しい一歩を歩み出すことができる。神さま、本当に、その通りです。真実となりますように。私たちが祈るとき、どんなに、世界が混沌としていて、自分の生が虚しく思えたとしても、この不確かな時代に、確かなことが地に満ちていきます。霊のまなざしがあるところ、主イエスは、語ることを止めません。

あの五千人の給食の奇跡の時の夕暮れのように、山の上に昇られて説教したときのように、食事の後、愛する弟子たちとの別れを惜しみながら語った夜のように、いつまでも、神の言葉が、しっかりと私たちに結びついて、染み渡っていくように、あなたの救いのために、世と向かい合う神の言葉を注ぎ続けています。

(復活節第5主日 4月28日 牧師 片岡賢蔵)

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