罪より愛が勝る

聖書 出エジプト記 15章1〜11節 | ヨハネによる福音書 20章19〜31節

 復活の物語を聞きました。弟子たちの最初の物語を思い起こしていただけますでしょうか。

 ヨハネによる福音書の1章35節から39節。2人の弟子たちが、洗礼者ヨハネの指し示した方に従っていきます。「ラビ、どこに泊まっておられるのですか。」イエス「来なさい。そうすれば分かる。」この言葉には、主イエス・キリストがどういうお方であるか、共にいる弟子たちは知ることになるという意味が含まれています。弟子たちはこの後、実際にイエスに従っていき、知っていきます。

 ヨハネによる福音書では、イエスと弟子たちとの関係が非常に密であって、時には弟子たちが主のことを理解していないということも明らかになって物語が進み、十字架と復活の物語が最後に語られて終わりとなります。

 今日読まれたのは、疑い深いトマスの物語です。聞いたもの皆の心に残ります。このトマスは主イエスに声をかけられて、主に応答するものとなります。主イエスご自身が、ご自分の仕方で他の人には決してできない仕方で神の愛を示してくださいました。そのことによりトマスは救い主であるお方と、父なる神に応答するものになりました。

 トマスの物語の結びはイエスの言葉でした。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」(20章29節)その前には、聖霊を受けなさいとイエスが言って弟子たちに息を吹きかける場面がありました(20章21〜23節)。ですから、ここでは教会のことが伝えられているのです。ただ教会だけではありません。私たちはトマスと自分の姿を重ねられるのですが、人間全ては、ほとんど何も分かっていないのです。神の方から、ご自身を示されることによって初めて分かる。それが聖書で言われているところの真理に最も近いところにいる私たちに知らされる、主イエス・キリストの真理なのです。

 トマスは自分より先に復活の主に出会った弟子たちにこう言います。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(20章25節)分かりやすいことを言ってくれものだなと思います。トマスは、この時に主イエスがまさか本当に復活したとは思っていないのですが、それは私たちが復活の主イエスのことを自分自身の力だけでは理解できないのと同じです。

 主イエスは、トマスのことをよくご存知でした。週の初めの日の夕方にも、八日の後にも家の中に閉じこもっていた弟子たちのもとに主が現れた時、こう言います。「あなた方に平和があるように」(20章19節、26節)。トマスに対しては、こう言います。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(同27節)

 冒頭で弟子たちが招かれた時の物語を思い起こしてくださいと申し上げましたが、これも最初の物語、ナタナエルの物語と似ているなと思います。ナタナエルはイエスに「わたしは、あなたがいちじくの木の下にいるのを見た」と言われて驚き、イエスに対して「ラビ、あなたは神の子です。」(1章49節)と言います。

 復活の物語に戻ると、この後、教会の人たちは遣わされて、発展していく群れとなります。トマスはこの後、世界に遣わされる宣教者になるのです。私たちもトマスの物語に自分を重ねるならば、ほとんど何も分からない者、しかし神に自分を知っていただいた者として、なんとか応答する者です。しかし、そうしたら、もう全世界に遣わされるです。疑い深いトマスの物語によって復活したキリストの真理が伝えられるだけでなくて、その主によって世に遣わされる者たちのことが示されました。

 主イエスは宣言します。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せばその罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(20章22〜23節)

 罪の赦しは教会にとって大事な告白です。弟子たちは神の愛を伝える人となりました。愛の神を伝える人となったと言ってもいいのですけれども、その愛の神というのは、罪を赦す神です。聖霊を吹きかけていただきましょう。新しい命を受けて主に従った者たちと共に歩むことができますように。

(復活節第2主日 4月7日 牧師 片岡宝子)

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