世界に伝えるべき言葉がある

聖書 エゼキエル書 37章1〜14節 | 使徒言行録 2章1〜11節

 今日、エゼキエル書を読みました。もうこの箇所を読んで泣きそうな気持ちになりました。枯れた骨の復活です。

 先週日曜日に、シオンの丘墓地で合同礼拝が行われました。ヨハネの黙示録の御言葉が読まれて賛美歌が歌われました。これがどんなに素晴らしいことかと思いました。終わりの日に、私たちに神の御前にある平安を与えられる。そういう励ましを受けて礼拝をささげることができました。終わりの日の祝福へ向かって、私たちは一歩一歩足を進めています。この地でも、信仰生活の終わりにおいても、終わりの日においても、平安が与えられます。

 大きな力によって生きることを諦めざるを得なかった人たちを思い浮かべます。それがたとえ、神の摂理によるものだったとしても、地上に残る者たちには悲しみが残ります。しかし神は悲しみを喜びへと変えてくださる方です。そこで語られることは、神の言葉がこの世界を造るのだ、ということです。枯れた骨が復活する。神の息は、この地に住む者たちに再び命を与えることもできる。そういう預言の言葉があります。霊に呼びかける預言者は、「聖霊よ、来てください」と祈る信仰者の姿にも似ています。

 私たちは、今日、教会の誕生日とも言われるペンテコステ、聖霊降臨日を迎えました。神の言葉は世界を形づくります。神の息が命を与えます。教会の誕生の物語には、何とも言えない喜びがあります。ルカによる福音書と使徒言行録を記した著者ルカは、分かりやすい形でこの出来事について語ります。プロセスを丁寧に描くのです。

 イエス・キリストは十字架につけられ、葬られ、三日目に死人のうちよりよみがえり、四十日に渡って弟子たちに現れて、天にあげられました。ルカによる福音書の最後と使徒言行録の最初の記事は重なります。主イエスは弟子たちに向き合われ、祝福を与える姿でそのまま天に昇られました。弟子たちは十日間祈り続けます。心を一つに合わせて、イエスの母マリアやイエスの兄弟たちと祈っていたのです。聖霊が降る前には、ユダの代わりにマティアという人が神の御旨によって使徒として選ばれました。

 そうして、一つになっていた所に聖霊が降ったのです。五旬節の日で、聖霊が彼らの上に「とどまった」(2章3節)というのです。

 なおヨハネによる福音書では、復活したイエス・キリストが弟子たちに息を吹きかけられたというところで、聖霊降臨が起きます。「聖霊が降った」というような、言葉の説明はありませんが、そう解釈されてきました。復活のイエス・キリストによって私たちは変えられるのです。それが聖霊降臨です。直感的なところでは、ヨハネの方が分かりやすいかもしれません。

 戻りまして、ルカによる福音書・使徒言行録は、別の分かりやすさがあります。聖霊は、激しい風・家を揺らす音、炎のような舌という、目に見える、また耳に聞こえるしるしとして現れ、「一人一人の上にとどまった」のです。その様子は外にまで伝わったと説明されるのです。そして、一同は聖霊に満たされ、他の国々の言葉で話し出しました(2章1〜4節)。一見、一部の人にしか分からない仕方でありましたけれども、そこで御業が語り終えられることはなく、外へ外へとこの出来事は伝えられていきます。

 ルカでも、ヨハネでも、イエス・キリストの復活は、「復活の証人」となった弟子たちに知らされたので、いわば一部の人に主が現れたと言えます。けれども、よく読めば、だからといって復活の主は、こっそり、ひっそりと弟子たちに現れて、天に昇られたということではありません。主イエスの死と復活、また天に上げられた出来事は、世界に宣べ伝えられていく出来事となるのです。ここには、神の御心があります。弟子たちは、聖霊を受け、その場所から、復活の主を伝えるために出かけていく者となりました。そういう出来事がペンテコステの日に起こったのです。

 私たちは神のご計画によって神の御旨を知るものとなります。そのご計画は、神の業であって、私たちの業ではないのです。ルカがプロセスを丁寧に描くのは、そのためでもあるのです。そこには神の御心を知った者たちの喜びや、祈りの言葉、賛美があります。この物語によって、私たちはこの地に神が働いてくださっていることを証しする人たちがいて、私たちもまた、証することができると知るのです。

 この教会の証が、全世界に告げられました。このことによって「神が共におられる」ということが全ての人たちに知られるようになりました。この私たちが告げるべき言葉を、私たちが携えて出かけていくことができますように。

(聖霊降臨節第一主日 ペンテコステ礼拝 5月19日 牧師 片岡宝子)

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