重い宣言

聖書 出エジプト記 33章7〜11節 | ヨハネによる福音書 16章25〜33節

 今日は、子どもの日の祝日ということで、新聞には子どもの権利について紹介する記事が掲げられていました。「子どもの権利」とは、子どもの人権のことです。子ども一人ひとりが意志を持っていて、意見が尊重されるべきという考えです。乳児期・幼児期を通して、言葉で伝えることが難しかったとしても、周りの大人たちがすべての子どもの権利を理解し、守ることが必要です。

教会には子どもたち、また、成長した青年たちが来ます。朝、すれ違いざまに挨拶する時、あるいは席についている時、たとえ、よそよそしい態度であっても、どうか、無視しないでください。

教会には誰が集まっているかというと、洗礼を受けて信仰告白した人、幼児洗礼を受けた人、求道者、子どもたち、そして、たまに初めて教会に来たという人です。当たり前すぎて意識することがないかもしれませんが、そうなのです。皆が招かれています。ですから互いを認めていただきたいと思います。

ヨハネによる福音書に、イエス・キリストの教えが記されていました。場面が始まる13章から見ても、「わたしはまことのぶどうの木」と始まる15章1節から見ても長い説教が続くところです。

主イエスの言葉を目立たせる翻訳聖書があります。イエスが話しているところだけ赤字、他は黒字という編集です。イエスも、イエスに出会う人も登場人物の全てが大事なので、私はその方法が好ましいとは思いませんが、ヨハネによる福音書を見ると特徴が一目瞭然です。16章の途中まで、ページは真っ赤です。時は過越祭の前、場所はエルサレム近郊。主イエスは、こう言います。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(16節)その後、このようにおっしゃいます。「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」(28節)

主イエスが受難の後に死ぬこと、その後、復活し、弟子たちに現れること、そして、父なる神のもとに帰ることを予告しておられます。弟子たちには互いに愛し合うことを教え、長い祈りをささげます。

イエスの言葉に対し、弟子たちは、最初、疑問符をつけて反応していました。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」(16章17節)ここでは、互いに「分からない」(18節)と言い合います。ところが、イエスが「父のもとに行く」と再度語る後半では、こう反応します。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません……だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」(29〜30節)

先ほどの聖書の例でいうと、黒字で書かれ、逆に目立つのです。「今、分かりました」、「信じます」と、信仰の告白をするのです。ここには、教会の信仰告白が反映されていると言っても良いでしょう。

では、何が分かったのでしょうか。イエスは、「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである」(26〜27節)と明言されました。弟子たちの「今は……少しもたとえを用いられません」との応答から、彼らが御子と父なる神との関係を理解したと読むことができます。

なお、それまで疑問符で話していたのに、どうして弟子たちは、ここで瞬時にイエスと父なる神との関係を理解したように描かれるのでしょうか(もちろん、全ては理解できていなかったとしても)。おそらく、この後の説教の最後に、主イエスが弟子たちの受難と十字架の勝利を告げておられるからです。

「これらのことを話したのは……わたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(33節)

弟子たちにも世で苦難があります。しかし、主イエスは既に世に勝っています。復活の主の栄光がここに示されるための、死の前の勝利宣言であったことが重要です。この重い宣言があるからこそ、それに呼応する信仰告白が挟まれたのです。主の復活後、弟子たちは聖霊を受けて、間も無く「世」へと遣わされることになります。

(復活節第6主日 5月5日 牧師 片岡宝子)

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