立ち上がらせてくださる神への希望
聖書 ミカ書 7章14〜20節 | 使徒言行録 24章14〜20節
使徒パウロが弁明するところ、ショッキングな箇所でした。使徒言行録にはキリストの十字架と死と復活の後の教会の歴史が記されます。その歴史は、いつも竪琴をかきならして賛美だけをしているというではなくて、時に激しい出来事の中に巻き込まれます。その中で、勇気を持って進んだ人たちの出来事も書き記されます。
パウロが勇気を持って裁判の場で答えます。キリスト者は「証をする」と言います。キリスト者として、自分はこういう希望を抱いていますと言い表すことです。それが友人に向かってなのか、家族に向かってなのか、パウロの場合は反対者たちに殺されそうになり、しかしローマ市民だということが分かり、兵士に守られながら、妙な仕方ですが、弁明することになりました。こうなった場合に証をすることは、とても大変じゃないかと思います。でも、きっと私たちが持たなければいけない勇気はいつも同じで、友人に対しても、家族に対しも、為政者に対しても勇気を持って語らなければいけないことがあるのだと、この聖書箇所から思わされます。
パウロは、自分の望んでいることはこうですと語っただけなのです。でもその時にいつも周りの人たちが、強く問いかけてきますし、反発してきます。ちょっとした反発だけでなく、攻撃してくる。これは、使徒現行録で繰り返されることです。「ああ、またか」という風に思わなくもないですが、良い見方をすると、反対をする人たち、また攻撃をする人たちが出てきても、その度に神を信じる人たちも起こされるということです。これは使徒言行録の語る定式のようなものです。
その語りの中では、反対者もいわば神に招かれている人たちです。必要な登場人物としてきちんと描かれ、そして、出来事すべてが神を伝える物語となります。つまり神を賛美することは、そこに反対者がいても、勇気を持って何かしなくてはならないことが続いても、その先にまた続くことなのです。
パウロは神に望みを置く「希望」を持ち続けました。パウロの証にある通り、教会には正しい者も正しくないと言われていた者も集っていました。正しくないとは、共同体の中でそう言われた背景があったということです。イエス・キリストの恵みによっては皆が罪人であったにも関わらず、神に救われるとパウロは教えました。「更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。」(24章15節)。正しい者というのは律法を守る人のことです。更に律法を守りたくても守れなかった人も、ただキリスト・イエスの恵みによって救われると言ったのです。そこには教会の人たちを守る姿勢が感じられます。
教会の人たちは何をしているのでしょうか。このパウロの希望と同じ希望を抱いています。「主よ、来てください」と祈っています。神によって救われることをただ信じています。それゆえに、神の国に入ると確信しています。そのようなゴールがあると思っているのです。
「主よ、来てください」という言葉は、マラナタと礼拝の中で唱えられていました。これはアラム語ですが、ギリシャ語の祈りも聖書に記されています。神に望みを置くというのは、「来てください」という祈りと一緒です。つまり、この私が抱いている望みというのは、神によって聞かれるものです。そして、神の国に入ること、その望みによってその人が生かされ、特別な命に与ることができると確信させられるのです。ただ単純に命の循環があるということではなくて、神に引き上げられて、この地に来てくださる神によって、この私が生きる者とされる希望です。
ハイデルベルク信仰問答にこうあります。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」。「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」(吉田隆訳)
私が救い主イエス・キリストのものであること。神の国に私が入るために、イエス・キリストが来てくださって、正しい者も正しくない者もやがて復活する希望を与えてくださいました。喜びの歌を奏でる竪琴による賛美は、時に激しい攻撃にあって、奏でられなくなります。しかし羊飼いは、羊たちを導く時に杖を使います。私たちは望みを語る時、神に対する希望によって祈り、賛美する(した、し続ける)のです。
(聖霊降臨節第8主日 7月7日 牧師 片岡宝子)
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