迷子は誰?
聖書 ゼカリヤ書 8章1節〜8節 ルカによる福音書 2章41節〜52節
2026年、新しい一年の歩みが始まりました。今年も聖書の伝える神の言葉に驚かされる礼拝を捧げていきたいと思います。今朝読まれたルカ福音書の箇所は、とっても面白い場面です。成長した少年イエスが迷子になったと思いきや、必死に探した両親の方こそ、迷子のようにさせられた。このお話しが、イエス様のお生まれになったクリスマスの最後を飾ります。
母マリアは、主イエスに驚かされることの多い生涯を送りました。「そうそう、あの子には、本当に驚かされてばかりでね。迷子になったときも、本当に大騒ぎしたのよ。」
その大切な我が子イエスが、最期には、目の前で鞭をうたれ、人々から嘲りを受けて、十字架という残酷な処刑によって殺されてしまうのを、マリアは、どれほどの驚きをもって見つめたのでしょうか。マリアが生涯、その心に納めて思い巡らし続けた驚きを、福音書記者ルカは、私たちにも知ってほしいと筆を取ります。
祭りの帰り道、親戚や知人の大行列の中で、我が子イエスは当然、この一行の中にいるものと思い込み、両親は丸一日歩き続けました。ふと気づくと、そこに主イエスはおられません。彼らはパニックになり、自分たちの生活に近い下の道を必死に捜し回ります。しかし、見つからなかったので、エルサレムへ、上の道に引き返しました。ようやく見つけた我が子イエス。彼は神殿の境内で学者たちの真ん中に座っておられた。マリアは驚いて口にします。
「なぜこんなことをしてくれたのです。ごらんなさい。お父さんもわたしも、心配して捜していたのです。」
マリアは、主イエスを自分の家族という一行の中に連れ戻そうと必死でした。ところが、驚くべき言葉が返ってきた。
「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは、当たり前だということを知らなかったのですか。」
冷たく思えるでしょうか。でも、この言葉は心配した親への冷たい拒絶ではありません。マリアを心配する親という役割から解放し、一人の信仰者として主を仰ぎ見させる一言です。マリアは言葉を失います。目の前の少年イエスが、私の守るべき子という小さな枠を超えて、天の父という中心に結ばれていることに圧倒された。迷子になっていたのは、イエスではない。神の御子を私たちの物語に閉じ込めようとしていた、こちらの方だった。
バーバラ・ブラウン・テイラーというアメリカの聖公会の司祭がいます。テイラーは、この物語で描かれていることをThe Grace of Being Lostと言いました。迷子になることの恵みと呼んだのです。私たちは、主を見失うことを失敗と考えます。しかし、主が私たちの集まりから姿を消されるのは、私たちが自分たちの作った神のイメージを捨てて、真の主に出会い直すためなのです。私たちが主を見失う感覚を味わうときこそ、主イエスが正しい場所へ招こうとする恵みが注ぎます。
マリアは主の声を聞きます。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ。」この日、マリアは再び主と出会い直しました。この人は本当に父なる神の子だ。ですから、この物語は私たちにとっても、イエス様と出会い直す気づきになります。主イエスは、私たちの計画や都合に同行してくださるお守りではありません。教会で、私たちが「主は共におられます」と言うとき、つい、そんな錯覚に陥ります。私たちの旅の一行の中に、主イエスがついて来ると思い込む。でも、そうではない。イエス様は、私たちが立ち返るべき「中心」そのものです。いつでも、天の父の居られるところに座しています。そこに驚きと平和があります。
共に読まれたゼカリヤ書8章も驚きと平和の光景を伝えます。主を見失っていた捕囚の民が再び戻ってきた時代に、主を中心に迎える神殿を再び建設しようと大きなビジョンを語ります。
「わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ。」神は妬むほどの愛を注ぎ、中心を明らかにします。すると神の都は、人々に見えるようになる。再び、老いも若きも集って、笑い声がさざめきます。ゼカリヤの見た平和の光景です。神の居られる所が明らかにされると、人々はここで憩えるのです。神が神であるとき、世界は平和になります。ゼカリヤは続けます。
「そのときになって/この民の残りの者が見て驚くことを/わたしも見て驚くであろうかと」
神と再び出会い直す礼拝を捧げるところに驚きがあります。
(降誕節第二主日 1月4日牧師片岡賢蔵)
投稿者プロフィール

最新の投稿
イベント2026年3月24日4月5日(日)イースター礼拝のお知らせ
礼拝説教2026年2月17日神の主権
礼拝説教2026年1月29日迷子は誰?
礼拝説教2026年1月29日グッドニュースをあなたへ

