嬉しい挨拶、マリアの喜び

聖書 ルカによる福音書 1章39〜56節
  

 日本のキリスト教会では、12月25日の前後の日曜日にクリスマス礼拝を行うことが多くあります。多く方々にお集まりいただき嬉しいです。しかし今日は待降節第4主日です。「待つ」という気持ちについても、改めてご一緒に確認したいと思います。

神が世界を新しくする終わりの日、主イエスが天から再び来られる。この信仰は、現代の教会においても変わることがない希望です。私たちはその時を待ちます。信仰告白において、天におられる主を告白するのはそのためです。

さて「待つ」ことをしながら最大限に神を賛美した信仰者のモデルは、やはりイエスの母マリアでしょうか。聖画では顔つきや体格が大人の女性として描かれることが多いのですが、伝えられるのは「おとめ」、年若い女性であったということです。天使のお告げを聞いた時にマリアは戸惑ったのでした。年齢や態度については様々な評価がありますが、マリアについては神の働きを受け入れ、生まれてくる主イエスを待ち、信仰告白したことに注目することができます。

マリアの賛歌はこうでした。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」(46〜49節)この後、主イエス・キリストの父である神を最大限に賛美する言葉を重ねます(55節まで)。

マリアは身分の低い女性であったと言うことができます。自分のことを歌っていると思われるからです。受胎告知の場面においても、天使とのやり取りの最後に、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えています。この受胎告知の場面でささげられた賛美が、この箇所、エリサベト訪問の場面でも繰り返されているのです。

マリアは自分を通して神が主の救いを実現させるのだと悟った時に、「神が目を留めてくださった」と賛美しました。私たちは、マリアの物語に聖霊の働きがあったと考えます。マリアは聖霊によって身ごもり、聖霊の励ましを受けて神に自分の告白をすることができたのです。

マリアが社会的に弱い存在であったことは、当時のギリシャ思想において女性が男性より劣った存在と見られていたことや、聖書世界において神は男と女に等しく命を与えたけれども家庭では父親中心の形であったという説明などから、いくらでも言うことができます。極めつけはこの受胎告知です。いいなずけのヨセフと結婚する前に子を身ごもることになりました。これは姦淫罪にあたるもので、人々に知られてしまったらマリアは生きていくことができなかったかもしれないのです。

ザカリアやエリサベトといった一部の者たちが、このマリアの複雑な状況を知り、受け入れ、マリアを庇護しました。それゆえにマリアは賛美をすることができました。その状況を考えても、マリアが「自分を通して神さまが働かれた。それはわたしに神さまが目を留めてくださったからだ」と歌うのは、この物語、この歌を聞く限り、本当にそうだと思わされます。

「わたしの魂は主をあがめ」。この言葉も印象的です。「マグニフィカート」と呼ばれます。『讃美歌21』にはマグニフィカート(マニフィカート)の曲がいくつかあります。今日転入されました中野潔さんとも転入の準備会にて歌いました。そしてマグニフィカートについての意味を『改めて学ぶ、教団信仰告白』(神代真砂美著)から学びました。そのテキストにも記されていたことですが、「マグ」には、神を大きく見るという意味があります。

マリアは神を見ています。神が働きかけをしてくださる、わたしはそれを受け入れる決断をし、この出来事を通して、主なる神を賛美することができる。素晴らしい賛美だと思います。マリアのように「わたしの主を賛美することができた」、その喜び、その出来事を経ることが、「神が共にいます」ということなのです。

神は恵みと憐れみの深いお方です。弱い者を救い、思い上がる者を倒してくださるお方です。その神は、イエス・キリストを通してご自身の愛を示されました。その愛から逃れられる人はいません。終わりの日にはこの神の愛はすべての人に知られることになります。しかしながら、この神に対する信仰というのは、マリアのように決断をし、神に従うことを選んだ人たちがささげる応答です。

神への応答、ちょっと重い言葉かもしれませんけれども、神の招きに対するわたしの今日の、今の、この告白。その賛美を神が聞いておられ、それゆえに祝してくださっていると思います。

 

 

(クリスマス礼拝 12月21日 牧師 片岡宝子)

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